素直さの樹

もっと、素直な気持ちを育てたい。

辛い事や不可解な事が続いた時には、素直になれない、そんな時もあると思う。
だが、それはいつか、きっと良い肥やしとなる。
それは素直さの芽が成長を休んでいるのだ。
ずっと成長を続ける状態でも、やはり人間も、どのような動植物も、それは草臥れてしまうだろう。

水や肥やしをやり過ぎても植物は枯れてしまうので、我慢ばかりする必要も無い。
泣きたい時には、泣けば良い。愚痴りたい時には、愚痴れば良い。

素直の樹を育てる事だけは、忘れないようにしたいものだ。

国家と世界平和

『国家と言うものが無くならない限り、世界平和なんて到底無理や!』

と、青木雄二さんはある本の中で仰っていたが、やはりそうなのだろうか?

しかしやはり、国は必要だ。地域的な法律の単位、行政の単位が無ければ住民は安心して生活出来ない。
しかし国家と言う意識は時として平和を壊します。特に東アジアではその傾向が強い。

そして、国家がなくなっても無理だ。

今ある国家がなくなれば市町村がミニ国家になって戦争をする。
その市町村さえもなくなれば家がマイクロ国家になって戦争をする。
中世、城ひとつに数十人の騎士と市町村レベルの領土と言ったミニ国家が戦争をしていた頃、そうした領邦国家規模の政治的まとまりさえなかったアイスランドでは、家族が戦争の単位だった。

他人に対する厳しさは自分に対する甘えである。

やたら、他人の事ばかり「女々しい」とか「情けない」とか「ヘタレ」とか「甘えている」とか「逃げている」とか言って謗ったり、中傷するような輩が多くて困りモノですが、それなら仕舞いには生きて行く事が何でもかんでも女々しいと言う事になりそうではないでしょうか?

下手すれば、死者、自殺者が、一番、勇敢な男らしい、また最高人格者って言えば手っ取り早いのでは?と考える次第です。

先ず、男らしい男や女らしい女、しっかりした性格の人間はいたとしても、完璧な人間はいませんし、他人の事ばかりケチを付けたり中傷するのは簡単ですね。

どんな格闘王者とかでも臆病な一面がある位ですし。

それならやはり、真面目努力家な人や、弱者に優しい人や、努力して良い結果を出すような人達は皆、
「批判される事を恐れているヘタレ」とか、
「根暗」、「偽善者」、「裏でネチネチしているんじゃないのか。」
等と中傷を受けるのが宿命でしょうか?

人間は生まれついてなら、男らしくも女らしくもなく、
男らしい人はやはり、最初は諭されて、努力して男らしくなっているのでしたら、

なら男らしい人に、
「お前みたいに男らしい奴ほど、周りから、女々しいとか情けないとか謗られる事を恐れて、努力して男らしくなっているのだから、本当は女々しいんだ。」
とか言って中傷したり、
女々しい人に
「君みたいに女々しい者ほど、周りから、女々しいとか情けないとか謗られる事を厭わずに堂々と女々しくなっているのだから、本当は男らしくて逞しく勇ましいんだぜ。」
とか言って誉めるような事をすれば、

それが一番、手っ取り早いのではないかと思いますが如何でしょうか?

また、勇敢な人に
「お前みたいに勇気を出す奴ほど、周りから臆病とか弱虫とか謗られる事を恐れて勇気を出しているのだから、本当は臆病で弱虫でヘタレなんだよ。」
とか言って非難中傷したり、

明らかに臆病で弱虫な人に
「君みたいに、弱虫で臆病な人ほど、周りから謗られる事を厭わずに、堂々と臆病、弱虫になっているのだから、本当は勇敢なんだぜ。」
とか言って誉めたりしますかね?

ならそれがそれで一番手っ取り早いように思いますが如何でしょうか?
生きるって、面倒臭いものですね。
でも、面倒臭いから面白いのかも知れませんね。

人に厳しくして非難して中傷するような輩はただ心が狭いだけ。
他人に対する厳しさは自分に対する甘え。
心の弱さなんて誰にでもある。それを誤魔化す事や我慢する事が前提で、それをしない事を否定して、弱さを見せた人を責めるのは人を思いやる気持ちが無いから。
そんな心が狭い奴に限って、自分より立場が上の奴とか好みの異性等の気に入られたい奴は誉めまくる。
結局のところ、何が良くて何が悪いかじゃなくて、相手にどう思われたいか、どう思わせたいかだけの問題。
嫌いな人や面倒臭いと思う人には好かれなくても良いし不愉快な思いをさせたいから厳しくして非難中傷するだけの事。
言っている事が間違いじゃなければ正しく善良な訳じゃない。偉そうに人を非難中傷する人は、善良じゃないし、偉くもない。他人の弱さを責める奴は自分の弱さを自覚してないだけ。
人に厳しく非難中傷する人間の目線で考えてみたり、
非難中傷する人を駄目な人と言う厳しい見方をして否定的に考えてみたりすると、とてもシンプルです。
生きるって面倒臭いものではありますが、偉そうにする人の本質に気が付いたら多少は面倒臭くなくなります。

私は何を言われても動じない自分でいたいと思っています。
女々しいも男らしいも人によって基準は違うし、大体他人に言いたい放題好き勝手言っている人は、自分が言われたくなくて先に相手を攻撃しているのかな?って。

それにそういうことを言う人は他人に自分のコンプレックスを重ねているだけだから、あぁこの人はこういうことに悩んでいるのかぁって思って話は聞き流しています。
勿論、理不尽なことを言われればイラッとする事もありますが、言い返したら相手と同じレベルまで落ちますので。

一番は、相手の言葉に一々左右されない自分の軸を持つ事だと思います。

難解な特撮等。

あの、特捜ロボ・ジャンパーソンと言い、仮面ライダーの新シリーズ(クウガ以降)と言い、
内容自体はなかなかドラマタッチで、また、結構深くて難解なものとして有名ですね?
子供が楽しんでみるのは飽くまでも戦闘シーンぐらいではないかと思いますが如何でしょうか?

そもそも普通の戦隊ものと言う時点で、幼児向けであるとは言え、しかしながら、時々どう見ても、作中の台詞とか聞いていると、幼児や小学低学年では習わないような言葉(熟語や慣用句)とか、普通に出て来ますよね。
なら親とか、大人が一緒に観て解説してあげたりするのがより良いかも知れませんね。

また、子供向け番組(アニメや特撮)でも、大人になってから観たなら観たで、見方や感じ方が違い、それで得られるものも違ったりはするかも知れませんので、作家や漫画家やシナリオライターや脚本家等を目指す方々は、どんどんそう言うのをやっても良いのではないかと思います。
ですが、飽くまでも普段は、普段にニュースや新聞を見たり、文学や倫理等の本も読んだりしながら、気休めも兼ねてその合間で、ですが。

「考えすぎ人間へ」(遠藤周作)エトセトラ。

遠藤周作氏の「考えすぎ人間へ」を読む前から薄々感付いていた事ではありますが、
その本の中でも、

今時の若い女の子は、アホばっかりなんですから、
そんな、見る目の無い自分勝手な子から振られたのなら、手を叩いて喜びたまえ。

との事ですが、確かに同感です。

皆さんは如何でしょうか?

振られた時の考え方としてはまあそれでもいいんじゃないかと思いますが、『考えすぎ人間へ』所収の文章の多くは1980年代かそれ以前のものであり、そこで言及されている「今時の若い女の子」のほとんどは、現在少なくとも40歳台以上になっているはずだと言う事も、一応、把握しておく必要があるでしょうと。

それから四半世紀を過ぎた現在における「今時の若い女の子」について、やはり同様に「アホばっかり」であると考えるべきなのかどうか、もはや故遠藤周作氏の意見を知る事は出来ません。
ただ一般的にいって、壮年期には若年層に対して非常に批判的であった者が、老境に達すると一転して高く評価するようになる、という傾向があることは否めません。要するに、自分の子の世代に対しては辛く、孫の世代に対しては甘い(笑)

一方これを、いわば時代通底的な真実として「若い女の子に振られても気にする必要はない(ある程度年齢のいった女性に振られたら真面目に考えるべき)」と捉えることももちろん可能です。

まあちょっと考えすぎなんでしょうけれども。

これはまた、究極のポジティブシンキングですね。ベターハーフは自分にぴったりの半分を探すことですから、そのバカ娘は自分にふさわしくない相手です。

つまり自分が基準なんですからとりあえずは「自分磨き」から始めるのがいいでしょう。ついでに人を見る目も養っておいた方がいいです。

安楽死の是非と、飢え死にについて。

癌や窒息と比べれば、飢え死はまだ楽?
やはり飢え死って、最終的には安楽死になりますかね?

それから、安楽死の是非についてですが、皆様は如何でしょうか?
私は寧ろ安楽死には賛成です。何故なら。

立花隆氏の本も、前はよく購入して読んでましたが、「癌になって死ぬぐらいなら、飢え死にした方がまだ楽。」であると、特に生命の謎シリーズを読んでみるとそう書かれていました。(笑)

ですのでこうなってしまっては一生懸命生きる事に馬鹿馬鹿しくはなるかと思えますが、矢張り誰もがすぐに死のうとは思いませんね。

ではここで、癌と飢餓についてなのですが。

・癌の場合は、癌になってしまえば大よそは助からない事が多く、最終的には苦しみをあげてそのまま亡くなる人が多い。

ですよね?

では立花さんの「生・死・神秘体験」を読んで見ましたところ、こう記されていました。
インドか何処かの宗教徒の人が試してみた、断食によって臨死体験に入る事だったとは思いますが。

「来る日も何も食わずに過ごしていると、4日目、5日目辺りまでは物凄い空腹感に苛まれるのだが、そこをぐっと堪えていれば、それ以降は "感覚が解らなくなり、最終的には楽に意識を失う" 事になる。」
との事だそうです。
その本は、遠藤周作さんや河合兄弟(雅雄さんと隼雄さんですね。)、山折哲男さんとの、対話形式でカテゴリー別に分かり易く書かれた本でしたね。

では上記については如何思われますか?
確かに記されていた事を私が、粗そのまま引用しましたが。



では。

人は皆、食べて生きるためにしっかりと働くものですが、それで身体を痛めて、最後には癌になり、苦しみをあげて死ぬ事になる人も多くいますね。
安楽注射を打てれば良いのですが、しかし現代日本では安楽死は法律で認められていません。
ですので一度癌になれば、完治出来ない限り苦しむだけ苦しんで死んでしまいます。

でも人々は、飢えて死ぬ事の無いように、人や物が巨万とある職場でバリバリ働くんですよね。
かと言って、勿論食べて生きる事が幸せではなく、趣味を持って、「働いて休んで、食べて遊ぶ。」が人間の幸せですよね。

けれども、定年退職後にゆったり出来るかと思えば、若い頃頑張りすぎた事で癌になってしまう人もいますね。

あのように、生存率の低い、治療が困難な癌で苦しみ喘いで死ぬぐらいなら、安楽死を行うか、飢えて死んだ方が楽ではないかと考えるようにもなりましたね。
ここで皆様は如何思われますか?

勿論、これを聞いて即刻「よし。これと言った楽しみも趣味もないから、早速飢えて死のう。」と言い出す人は、少なくともこの日本にはそういません、よね?(微苦笑)

それでも毎日を精一杯生きますか?私もそうです。

でも、癌や窒息等よりは、
"飢えて死ぬ方が最終的には楽である"みたいです。

苦しみのまま死ねば今後もそれが続く場合もあるそうです。

臨死体験でタイムスリップをしたと言う、木内鶴彦さんの体験談。

臨死体験でタイムスリップしたと言う木内鶴彦さんの体験談ですが、皆様は信じられますか?
特に科学や超常現象に詳しい方は如何思われますか?

前に立花隆さんの『証言・臨死体験』を読み、その本に色々記されてましたが木内鶴彦さんの体験談だけ他の人とは違った類のものでしたね。

木内鶴彦さんは小さい頃、ある日『危ない!と声がして、振り向くと誰もいなかった。しかし、大人になって臨死体験をした時、幼少の頃の自分がいる場所へ行って、危ない!と声を掛けた。』
と語っていました。
ある日、姉と一緒に河原で一緒に遊んでいると、危なく姉の方へ岩が転がって来そうなところを、危ない!と未来の自分(タイムスリップして来た自分の霊?)から声を掛けられたお蔭で、姉を突飛ばし姉は事故に合わずに済んだとの事ですが、やはりタイムスリップとかは有り得るのでしょうか?

タイムスリップは可能か?

時間と言うものは物質界というか三次元だけに存在するもので、他の次元は時間に縛られていないのではないか?と言う科学理論も存在します。心霊科学においても、時間は物質界特有のものであり、霊界においては物質界と全く違う時の流れであったり(一方向だけに流れていない)、時間に縛られていない、と言うのが定説にはなっています。

本来のスピリチュアリズムとは霊・心霊現象の実在を科学的に研究するものでした。1848年のアメリカのハイズビル事件から本格的な研究が始まったのですが、これらの研究に参加された科学者や有識者のほとんど全員が否定論者の方達で、霊の実在の否定の為に研究・調査に入ったのですが、真面目に取り組まれた方の全員が逆に肯定論者になられて行きました。