随筆「明日(あした)」

 私が考えるところで述べる事とは、明日(あした)と言うものについて、細かに論じて見る事にする。
 明日と言うものは、現在と言う視点から見て、決して見える筈の無いものである事は、誰にしろ自明の事であろう。しかし、具体的にはどのようにあり、どのように見え、そしてどのように考えて行くべきものなのかとなれば、明日と言うものは様々な形で分析される。
 それらはやはり、その人その人で見方考え方は変わる。全てが謎に包まれている明日を、どのように見て行くかは、先ずは誰もが途方に暮れ、懸命に考えても全てが分かるものでもない。占い師でも予言者でも完全に明日こと未来は、矢張り誰にも鮮明に見えるものでは決して無い。自分がそこへ行たその時にならなければ、知る事は出来ないものともなっている。
 明日については、二つの考え方がある。それは、楽天主義的な明るい考え方、厭世主義的なくらい考え方とのその二つである。先ず、楽天主義者の考える、しっかりとした前向きで明るい考え方についてである。それは、どう言うものかと言えば、明日とは、微かに光る、先の見えぬ「扉」となる。それから次に、厭世主義者の考える、不安であって少しくらい考え方についてである。そちらは何と、底の見えぬ、暗い大きな「穴」となる。明日はやはり何が起こるか分からない、不安の渦巻いた恐ろしいものだとも考えられる。確かに、誰にも明日には不安はあり、時には楽しみに思う事もある。そして、期待もある。特に、明日と呼んでいる状態にはいつも、期待と不安は満ち溢れている。明日と言う結果は、ヒントが幾つあろうと、きちんと全て万遍無く当てる事は出来ないものとなっている。今日が駄目ならばまた明日、そしてまた明日と移り、進んで行くのは、時に押される定めで、誰も後戻りする事は、出来なくなっている。時の流れには逆らえないため、二度と戻れない昨日は、止むを得ない。生から死に至るまで、前進あるのみで流され、それらを自分で如何にコントロールし、何処に辿り着けるかと言う、過程と結末のどちらともが大切となっている。
 だがしかし、幾ら慎重に頑張っても、天運の善し悪しによっても決められ、うまく行かないの場合もあり、それもまた止むを得ない。一人一人進み方が違い、また、境遇と言うもので皆分けられ、それぞれ皆どう行くか、どう行くべきかは神が決める事となる。運命と言う名の神、自然と言う名の神によって決められている。それは人間以外の全ての生き物がそうであろう。この世そのものさえも、度重なる明日によって揺り動かされて行く。動こうと動きまいとも、目を開けていようと閉じていようとも、明日と言うものは必ず訪れる。自動的に誰もが、何もかもが明日へと進行して行(ゆ)くようになっている。目を凝らしても見える筈の無い明日へとゆっくり歩いて行く。
 毎日が新しく、明日と言う名の道を歩み、新たな一ページを切り開いて行く。それが明日と言うものであろう。潮流には逆らえぬ明日であり、只管に進み行く明日、それらは、止まらぬ、帰らぬ時間(とき)の中で、鮮やかな朝を毎度迎えるものである。
 明日を信じると言う事は、また自分を信じる事。明日へと一歩また一歩と徐々に足を運んで行くとなっていよう。見えない明日を、手探りで追い、考えながら、迷いながら生きている毎日の中の一歩、一歩が、本当の小さな「明日」と言うものであろう。人は誰しも、輝く明日を望み、夢があればその夢も追いながら、明日へと羽ばたいて行くのである。