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随筆「正義から倫理へ」

悪と言う名の正義と、正義と言う名の悪。
果たしてどちらが正義か?
 勿論、曲がった事が大嫌いで正論をやたらとくどくど吐き捨てて却って周囲から煙たがられるのは、後者ではないか。
 主観によって断罪することは暴力である。独善的とも言う。
 それぞれの価値観を認め、受け入れた上で、その中でその価値観に沿わない行動に対して正論を言うことで、それが忠告、助言になる。
 私はまだ主観的な見方で善悪を判断する事しか出来ていなかった。正論は正論でも、独善的な正論である。「私にとって正しい事」は何か、では無く、「その人にとって正しい事」は何なのか。
 アダムとイブは知恵の実、りんごを食べてエデンの園を追放された。知恵の実とは何だろうか。そう。善悪の判断だ。それは神様のすることだったのでは無いだろうか。
 精神疾患の一つの原因として、白か黒の判断しか出来ない為に生じる苦悩が有る。治療に用いる考え方は、「白」「黒」「白でも有り、黒でも有る」そして、「白でも無く、黒でも無い」の四通りの考え方を受け容れる様にすることで苦しむことが無くなる、と言うものが有る。東洋的な考え方で、特に禅の考え方に近いものだ。それから、昔から議論は相手を打ち負かすものでは無く、自分の考え方を納得してもらうことだと言う。その為には相手の言い分に対しても三分の理は認める必要が有るものだ。正義は時代や文化によって変わる。一人の人間の中にある正義や正論も一生のうちで少なからず形を変えるもので、ましてや他人との間では非常に曖昧なものであると思う。もしも万人に通じる正義が存在したとしても、行き過ぎた正義は時に犯罪を生む。ここでだが、私の通っている大学は、キリスト教を担った、学院大学なのだが、キリスト教関係の授業が必須だったそこで購入していた教科書数冊を全て、勿体無いので単位をとった後も一通り全部読んだ。そこで「正義の名による暴力」と言う言葉が出て来た。目に留まり、もしやこれはと思った。正しいと言われる人間(聖職者)が集団で悪い誤った人間を片端から虐待を行っていたと言う話だった。
 正論は正論でも、やはり理(ことわり)は尽きないものなのか。
私がする事はキリスト教用語で「正義の名による暴力」と言えるところだったのだろうか。 ま、前者も後者も両方を照らし合わせて色々と意見出来る事が正義ではないだろうか。
 世の中には、「倫理」と言う学問がある。・・・学問と呼んでよいのかどうか、個人的には疑問だが。意味は、まあ御存知であるとは思うが、取り敢えず辞書から定義を貼り付けると、
【倫理】
人として守り行うべき道。
善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。
非常にあいまいな定義である。が、これは正鵠をいていると思う。つまり、倫理の定義にある「普遍的な基準」というのがそれだ。正邪の方向性は、時代背景・人の立場により変わる。だから「普遍的な正義(もしくは悪)」を定める所に学問の意義を置こうとする。逆説的ですが、正義が一般化出来ない事を指しているのが御分かりかと思う。かつて、キリスト教以外を異教徒として、あるいは魔女として粛滅していたことは歴史上ご存知ではないだろうか。当時、それは正義だった。勿論、当時でさえもそれが恐怖政治の一形態と知っていた民もいただろう。結論としては、「その人にとって正しい事」は、その人にしか判らないのが解となるだろう。ヤ*ザは暴力が正義だし、赤ん坊は泣いて御飯とかオムツとか人に取り替えてもらう迷惑をかけてもらう事が正義である。
 その行為の正邪を判定するのは常に他人なので、「その人にしか判らない」が解となるだろう。簡潔に言えば、正義も倫理も道徳も、その組織が、その個人が、その団体が、その国が、その社会がどうなることを求めているのか、その目的にどれだけ適っているのか、どれだけ有益なのか、どれだけ貢献しているのかが基準になって評価が分かれるものと言える。プラスならばそれは正義になり、倫理になり、道徳になる。つまり、エゴの正しさがあり、勝てば官軍負ければ賊軍を裁く正しさがあり、科学的に一タス一は二の正確の正しさがあり、無駄にしない生かす正しさがあり、森羅万象すべてを慈悲の心で評価する神仏の正しさも考えられるということも出て来る。評価する側や立場で全く違って来る。目的と手段のどちらに評価のルールをあてはめるか、その効果をどこに優先して評価価値とするかによっては、目的のための手段はその次の優先順位となる。自分の、自分達の、利益のためには、ルールはいらないという発想の正義も出て来る。この世界の全ての宗教、思想史を照らし合わせて考えて、真の真実を極める事が出来れば万物の総ての事が解けるのか。だが、現在の人間の気力と寿命では、どうもそれが出来ないのではないか。いや、でも英米思想では正義と善を分けるのは普通のことで、むしろ善と正義を別けていないと言うことは常識の範疇外である。つまり正義は客観的、普遍的な原理として共同体の構成員が実践しなければならないが、善は各個人の内面に究極的に存在するものだ。日本において正義が論じられるようになるには欧米人のように善と正義が違うということを自力で発見できるか否かということにかかっていると思う。因みに私は発見できるとは思ってはいない。現代英米思想のロールズコミュニタリアンリバタリアンや科学哲学などを照らし合わせればある程度回答は出る筈だが…。ここで気力はともかくとして六、七年あれば大体押さえられる。
ここで。
 現実を見ればごちゃごちゃ考えるまでもない。
 人間は生まれながらにして平等ではない。だから、生まれた後になるべく不平等を減らすような社会的仕組みが(不完全ながらも)ある。
 嘗ての、インドのカースト制度を前提において考えれば、「人が生まれながらにして平等」である事は、誤りではないのか。それは、インド古来の世襲的な階級制度である。バラモン〔=僧〕・クシャトリヤ〔=王族・武士〕・バイシャ〔=平民〕・シュドラ〔=奴隷〕の四つ。上層は下層を蔑視し、異なる階級の間の結婚を認めない。〔一九五〇年、憲法で禁止された〕
 輪廻転生に関する思想から、前世で散々悪行を犯していると決め付けられ、最下層の人はそこから抜けられず、最上層の人は下に成り下がる事もなかった。下層の人は清掃などの単調な作業ばかりやらされ、そこで上層の人が箒(ほうき)を持つ事さえも許されなかったらしい。
 ここでもしも、その輪廻転生があると考えれば、人が平等なのではなく、宇宙の全てこと、その"万物"全てが悠久な時の流れの中で平等になると言う事ではないだろうか。
 だが、例え本当でも、誰も前世を覚えていないのだから、人は見た夢を沢山忘れているので、それは見れていないのと同じであると言う概念と同等に、輪廻転生があろうとなかろうと、その有無の答えは無と言うのが答えになる。

 いつか世界が果てたその時、本当に最後に残る概念は次のうち、一体どれなのか?

一 全てが正しかった。
二 全てどれも正しくはなかった。
三 全てが虚無であった。

 結構、大抵の方が中立になれそうな  三位かと考えるのではないだろうか。

 ここで二を選んでしまえば、「二こそが本当の三になるのではないか??!!」と言うパラドックスに陥りそうではないのか。
 二こそが一番、虚しくて、全てが台無しになってしまいそう、二こそが虚無だ、二こそが、所詮は真の三ではないか、と言う話になりそう、と言う事で、三にしておくとしようか。
 出来ればその次は一にしたいところだが、私は二はとんでもなくなりそうで話にならないように思える。
 では皆様の考えで御願いしたい。
 倫理と言う学問から、良いも悪いも無いと受け止める事が出来る。
 答えの無さが、本当の答えだろう。

 神によって云々と言う事についてならば、最早議論する気は無い。

                                       了