ブログ「夢と希望と勇気のラビリンス」

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随筆「他人の褌」

他人の褌で相撲を取るような事(所謂パクり、あからさまな真似っこ)は、決して許される事ではない。
いつかは何らかの"形"になって自分に返って来る筈。
と言いたい所だが、

残念ながらその理屈は理想論に過ぎないらしい。
何故なら、今存在するものに完全なオリジナルは有り得ないからだ。
必ず何かしらの前例が引っ掛かってくる。

と言う事は、あからさまなパクリや真似があったとしても、前例に対するリスペクトがあるかどうか。
これが差になるかと思う。

「作品」とかならそうである。
お金取るなら勿論NG。趣味でも「私のオリジナルです」って言てしまうと駄目たま。
ただ、リスペクトなら微妙である。
「この作品に影響受けてます。」とか「好きだから似ちゃいました。」とか。

結局、生きていたら絶対に外部からの影響が有る訳で、完全なオリジナルなんて無い訳で、その引用元、原典に対する敬意の有無がパクリとリスペクトの違いだと思う。

やはり、そう単純な話ではない。
物語の大元を辿れば神話やシェークスピアに辿り着いたりする。

以下異論はあるが、強引な解釈。

一般人が現在の様な市販のパソコンの形態はApple(当時はAppleComputer)のMacintosh(現Mac)が構築したが、それを模倣したMicrosoftWindowsの方が普及した。
GUI+マウス操作などはMacintoshがオリジナルではない。

AndroidiPhoneの模倣であるが、シェアはAndroid
スマートフォンもAppleiPhoneがオリジナルではない。

オリジナルより2番手の方が普及する例は珍しいものではない。

でも、良くいる炎上した人はオリジナルへの敬意が無い事が多いようだ。
そう言った意味では多分、"形"になって返って来ると思う。

随筆「一冊の本」

 ふと頭に浮かぶ一冊の本、それは、何か趣が感じられる。頭に一冊の本を描いて見ると、様々なイメージが想像出来る。では、それはどのようなものであろうか。
 本は、一冊読むだけで多大な知恵や知識が身に付く。社会性が身に付いたり、人間性がより豊かになったり、豊かな教養も身に付けられたりする。一冊の本から幅広い視野を持つ事も出来る。自分の感性を存分に磨き上げるために、五感を研ぎ澄ませて文字の森を誘(いざな)われる。それも自由自在に。
 作者の心理や作者の意図する世界の全てがある。その文字の一語一語の中に、「世界とはどう言うものか、どう生きれば良いのか」と言う作者の考えが凝縮されている。その考えは、様々な角度から、世界の仕組み、人間の生きる意味などを探った作者の心の表明がある。例えば、嘗て滝沢馬琴の書いた、「南総里見八犬伝」と言う名の本は、全九十八巻百六冊と言う、全ての中で最大の長編小説であるが、全てを読破出来た者は、日本国内でも数える程しかいないと言う話である。
しかし、平岩弓枝と言う御方が、それを「一冊」に纏めてくれた。それを一冊に絞り上げた御蔭で、読み終えた後、内容や、原作者の滝沢馬琴と、それを纏め上げた平岩弓枝との二人の気持ちをも理解出来たのである。他には、夏目漱石の小説の中に、「水」や「鏡」への拘りを見つけ、そこから、漱石自身気付いていない漱石の心の奥を描き出そうとするような文学研究が次々と現れる。
 文学は、一冊の本だけでも、書く人間と詠む人間が、それぞれを確かめ、自分を作って行くのであろう。そう考える事によって、文学的営為の意味をが見えて来るのではあるまいか。一冊の本の中には作者の偉大な力が込められていよう。それは、一人の人間の思考過程の形象と言っても良いだろう。

草食系男子=妬み言葉?

所詮は、「草食系男子」は、"妬みの言葉"ですか?

軟派、軽薄でチャラい男の事や、肉食系男子の事は、すぐに「ウザい」とか「馬鹿じゃないの?」とか謗る癖して、

でも対照的に
「普段とても大人しいけれど、芯は強くて文武両道でイケメンだけれど、恋愛や異性には興味を持たず、いつも一人で黙々と事をこなしている」

と言う男性から、相手にして貰えなかった事に対する逆恨みとかで使う言葉だと思うのは私だけでしょうか?

今、挙げた、大人しくて優秀な草食系男子は、有名人の例で言えば、
高橋由伸氏タイプまたは、落合博満氏タイプですかね?


もう一つ例を挙げます。
私の友人N氏についてです。

引っ込み思案だが、勉学優秀で高専から国立理系大学まで進んだ、私の友人N氏について。

「もっと、友達作りなよ。」とか他の人から言われても、

「それは、勉強が得意で読書等が好きである俺に対しての妬みの言葉だ。」
としか受け取らない、N氏についてはどう思いますか?

まあ、引っ込み思案ながらN氏は芯は強い真面目努力家ではあり、
勉強と読書と筋トレとジョギングが趣味の、身体も筋骨隆々で文武両道ではありますが、
社交性や協調性がほぼ無いところぐらいが玉に瑕ですかね。

随筆「明日(あした)」

 私が考えるところで述べる事とは、明日(あした)と言うものについて、細かに論じて見る事にする。
 明日と言うものは、現在と言う視点から見て、決して見える筈の無いものである事は、誰にしろ自明の事であろう。しかし、具体的にはどのようにあり、どのように見え、そしてどのように考えて行くべきものなのかとなれば、明日と言うものは様々な形で分析される。
 それらはやはり、その人その人で見方考え方は変わる。全てが謎に包まれている明日を、どのように見て行くかは、先ずは誰もが途方に暮れ、懸命に考えても全てが分かるものでもない。占い師でも予言者でも完全に明日こと未来は、矢張り誰にも鮮明に見えるものでは決して無い。自分がそこへ行たその時にならなければ、知る事は出来ないものともなっている。
 明日については、二つの考え方がある。それは、楽天主義的な明るい考え方、厭世主義的なくらい考え方とのその二つである。先ず、楽天主義者の考える、しっかりとした前向きで明るい考え方についてである。それは、どう言うものかと言えば、明日とは、微かに光る、先の見えぬ「扉」となる。それから次に、厭世主義者の考える、不安であって少しくらい考え方についてである。そちらは何と、底の見えぬ、暗い大きな「穴」となる。明日はやはり何が起こるか分からない、不安の渦巻いた恐ろしいものだとも考えられる。確かに、誰にも明日には不安はあり、時には楽しみに思う事もある。そして、期待もある。特に、明日と呼んでいる状態にはいつも、期待と不安は満ち溢れている。明日と言う結果は、ヒントが幾つあろうと、きちんと全て万遍無く当てる事は出来ないものとなっている。今日が駄目ならばまた明日、そしてまた明日と移り、進んで行くのは、時に押される定めで、誰も後戻りする事は、出来なくなっている。時の流れには逆らえないため、二度と戻れない昨日は、止むを得ない。生から死に至るまで、前進あるのみで流され、それらを自分で如何にコントロールし、何処に辿り着けるかと言う、過程と結末のどちらともが大切となっている。
 だがしかし、幾ら慎重に頑張っても、天運の善し悪しによっても決められ、うまく行かないの場合もあり、それもまた止むを得ない。一人一人進み方が違い、また、境遇と言うもので皆分けられ、それぞれ皆どう行くか、どう行くべきかは神が決める事となる。運命と言う名の神、自然と言う名の神によって決められている。それは人間以外の全ての生き物がそうであろう。この世そのものさえも、度重なる明日によって揺り動かされて行く。動こうと動きまいとも、目を開けていようと閉じていようとも、明日と言うものは必ず訪れる。自動的に誰もが、何もかもが明日へと進行して行(ゆ)くようになっている。目を凝らしても見える筈の無い明日へとゆっくり歩いて行く。
 毎日が新しく、明日と言う名の道を歩み、新たな一ページを切り開いて行く。それが明日と言うものであろう。潮流には逆らえぬ明日であり、只管に進み行く明日、それらは、止まらぬ、帰らぬ時間(とき)の中で、鮮やかな朝を毎度迎えるものである。
 明日を信じると言う事は、また自分を信じる事。明日へと一歩また一歩と徐々に足を運んで行くとなっていよう。見えない明日を、手探りで追い、考えながら、迷いながら生きている毎日の中の一歩、一歩が、本当の小さな「明日」と言うものであろう。人は誰しも、輝く明日を望み、夢があればその夢も追いながら、明日へと羽ばたいて行くのである。

一流の頭脳派について

頭脳派でも、本当に賢い頭脳派は、すぐに、身体や心も鍛えなくてはならないと気付く筈だと思うので、
文武両道な人なら、寧ろ頭脳派(インテリ)だと私は思います。

やはり、「知は力なり。」ですね。

イチロー古田敦也落合博満高橋由伸ボブサップ角田信朗、ボビーオロゴン等を見ていても分かりますが、やはり、スポーツ選手とかでも上の方へ行けば賢い人が多いですね。
やはり、頭の良い人ほど、上手な身体の鍛え方やテクニックの磨き方などもよく分かってらっしゃるのだと思います。
身体をしっかり鍛えるのも、また、科学ですね。
運動・勉強は右脳も左脳も使うので、主に右脳を使う絵などの能力が反比例するとは限らないかな?スポーツは頭が良くないと一定のレベルを超える事は出来ないと思います。