ブログ「夢と希望と勇気のラビリンス」

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「甘え」は存在するのか?

やっぱり、常に何かに甘えながら毎日過ごしているのが人間ではないかと、友達と話した事がありますが。
他人に甘えずに頑張る人は、自分自身に甘えがちなんでしょうか?

そして、他人にも自分にも甘えない者や、黙々と努力して良い結果を出す人は、やはり、
「批判される事を恐れているヘタレ」だの、「何かには甘えてるだろ。」とか、「根暗」とか、「偽善者」とか言う中傷を受けるのが宿命ですか?

やたら自分の事を棚に上げて、他人・相手の事ばかり「甘えてるな。」とか「情けない。」とか言って謗る様な輩が、前から多くないですかね?

やはり、甘えずに頑張る人を極限まで不当に扱き使う為の口実ですか?


甘えてばかりの情けない奴ばかりが集まった中で、
自分一人だけ、甘えずに黙々と努力して良い結果を出すと言うのは、
それは逆に卑怯な事なんですかね?
私はそんな事は決してないと思います。
そのような人に対する中傷誹謗があれば、やはりそれは単なるやっかみだと思います。

商業主義は分かるけれど、やはり人間成長や自己修養するなら。

人間成長にはやはり、文学や倫理学や心理学ですよね。
また、他に自己修養するなら、ジョギングやジム通い、筋トレ、瞑想や資格取得等。
また、少しでも興味があれば水泳やデトックスヨガ(精神統一に良いらしいです。)とか自力整体とかカンフー等がフィットネススクールであるので、それも良いですね。
因みに僕は、多趣味なので、デトックスヨガとか自力整体は習いに行った事があります。
そもそも、家のすぐ近くに、ジムやプールやフィットネススクール等のある、県立の某総合体育館と言う施設があります。


しかし、引き換え、昨今のドラマやアニメやバラエティは、今の若い子達のレベルに合わせた、他愛無いチャラい阿呆みたいな内容のものが相変わらず多過ぎですよね。
商業主義なら仕方が無いところもあるとは思いますが。
あんなのばかり見てチャラチャラしてるから、進歩が無いとか幼稚とかだらしないとか謗られたり、年を取ってから、若くて優秀な青年達を妬んで中傷したりするような、そんな人間になってしまうのだと思います。

やはり、人生は山あり谷ありだ。

楽しい事や嬉しい事があっても、喜ぶだけ喜んだなら、その分、また嫌な事や辛い事、理不尽などがあった時のダメージは大きくなると言う事ですよね。
なので、喜ぶのも程々にしています。
熱くなればなる程、冷めた時のダメージは大きいです。

楽しい事や嬉しい事があっても、褒められても、今ではどうも、単純に喜ぶ事は出来ません。
褒められたとしても、
「褒められる事が叱られる事の始まりだ。」
みたいに考えてしまいます。(苦笑)(汗)
皆さんはどうですか?

「三国志」と「戦争と平和」

吉川英治氏や北方謙三氏の「三国志」と、トルストイ氏の「戦争と平和」について。

三国志』と言うのは群像劇の代表のものだけど、凡そ人間の全ての人格が網羅されている文学なんですね。その為に書かれたと言っても良い。
民族によって文化の中核を為す「骨」があるのだ。そして、この『三国志』と読むと中国の文化の「骨」が「文」と言うものになる事が分かる訳だ。つまり勇猛果敢な英雄ではなく、教養人と言うものが尊ばれる国なのである。
だから数々の英雄や豪傑が登場する中で、最も偉大に描かれているのは諸葛亮孔明だからだ。孔明を中心に、厖大な数の人間が躍動して歴史が紡がれていく様を謳い上げた、と言う文学である。
戦争と平和』はトルストイの代表作だが、これは戦争とは何か、平和とは何か、とい言う事の本質に迫る偉大な文学だ。
ナポレオンのロシア遠征によって起きる戦乱を背景にしています。そしてナポレオンも、迎え撃つロシア人の3人の主人公たちも、自由への希求を軸にしている事が描かれて行く。つまり、戦争とは自由への希求。そして人間は自由のために死す事が最大の幸福なのだと言う事が分かる訳だ。
平和とは何か。
それは戦いによって勝ちえたものである、と言う事が最後の結論として描かれている。
ロシアという国がイワン雷帝以来、戦いによって築かれた国である事、即ち自由を希求し続けた偉大な国である、とトルストイは言っている。これが「偉大なるロシアの大地」と言う崇高な象徴にもなっている。
ロシア文学にはこの「偉大なるロシアの大地」という通奏低音が在る、と言っても良い。
また、こう言う事が分かるには、「自由」と言う概念の深い考察と研究が必要な訳だ。だから膨大な書物を読まなければならない、と言う事である。

賢さの類型、機知と英知の違いについて。




ORIHICA


賢さには幾つも類型はありますね。

論旨の一つに「知的な人に限って、要領が悪く生き方上手にはなれない。」がありますが。

人には得意不得意があり、全ての面で賢くなるのは無理だと(絶対的な無理ではなく、経験したり努力するのには時間が足りないのですね。)最初から解っているつもりではありましたが。

学生の場合でもですが、以下はやはり、機知と英知の違いでしょうか?

1は英知に長けた人で、2は機知に富んだ人でしょうか?

1 内向的な優等生の場合。

・勉学優秀で、人と話さない分、いつも図書館で難しそうな本ばかりをよく読んでいる。思慮深い性格。
なのでよく端から見ている人からは「知的な人だ。」と囁かれたりしている。
実際、勤勉で勉強と読書は誰にも劣らず、思慮深く猜疑心も強く、物事を深く考察する事にも裏読みにも長けており、博学才穎で洞察力、分析力は抜群である。いつも落ち着いている。特に文学、哲学、人間科学、倫理等の分野には造詣が深い。
しかし、遊びやレジャーや雑用とかで、単純な細かい事を行う時には、ボンヤリして簡単な工夫も思い付かず、咄嗟に「もう少し頭使えよ。」とか「それぐらい考えりゃ解るだろう。」と、普通の人から言われて諭される事が少なくない。
特に、大勢の前に出るとボンヤリして頭が回らなくなったりもするし、勿論話術も無く口下手。
気苦労も多く、肝心な時にエネルギーが無かったりもする。
人と触れ合う機会も少なく、折角の豊富な知識を活かすのもそんなに上手とは言えない。
でも疑り深いから軽率な振る舞いもしないので2と比べれば、誰からも「単純」とか「子供っぽい」、「軽い」、「能天気」等とは言われたりはしない。
でもノイローゼとかになる危険性は、後者より圧倒的に高い為、天か地かになりがち。

2 いつも明朗快活な反面、軟派で浅薄でチャランポランで、勉強嫌いの読書嫌い。
しかし、よく周囲からは「アホだなあ。」とか「単純」、「幼稚(子供っぽい)」等と謗られるのはしょっちゅう。
そんな人に限り、何かする時に色々な事でチョイチョイと頭が働く。話術も巧み。
「明るさ」と「頭の回転」だけが取り柄ってところ。
だけれど、前者に比べて、ノイローゼや犯罪者になる危険性は低く、普通に働いて普通に稼い行ける無難な人間で、標準偏差を保てやすいと思う。

以上ですが如何でしょうか?

「勉強出来ない人に限って、勉強以外の事ではやたら頭が働く。柔軟なので世間のどんな荒波にも打ち勝てる。」とは皮肉なものですが。

「賢い人は存在しない。」と言う訳ではなく、
「全知万能な人は存在しない。そこまで成長は出来ない。」が正しいとは思いますが。

 学生のうちはよくわかりませんでしたが、社会に出ると知識と知恵が似て非なるものであることも思い知らされますね。

因みに自分は、どちらかと言えば前者タイプです。
本を読んで知識を吸収し、得たものをこう言う場所に書き込んだりする文字媒体では力を発揮しますが、人から聞いてすぐ仕事を覚えたり、咄嗟の機転を効かせたりすることは苦手です。
 ですから社会人としては、下の部類に入るでしょう。リアルでは寧ろ、要領の悪い人間だと思われている節があります。

でも、知識のある人間が知恵を見につけるのは困難ですが、知恵のある人間が知識を身につけるのは、前者よりも難しくないような気がするのです。
 努力して成功するタイプというのは、恐らく知恵のある人間のことなのでしょう。

 現に、勉強が出来て知恵も回り、おまけにスポーツまでこなし、人格も良い、完璧に近い超人が、存在していないわけではありません。現にそう言う人間を自分は知っています。そしてそう言う人間は、おしなべて社会的に高い地位へと就いています。
 世の中に業界は数多くあれど、どこでもトップに君臨しているのは、そう言うタイプの人間が多いのではないでしょうか。

出だしの言葉を変えると、
「世渡り上手な頭の悪い人」と
「世渡り下手な頭の良い人」の比較と言う事でしょうか?

まず、学業で使う「頭」と、生活の中で使う「頭」は違うような気がするのですが、
専門家では無いので、よく分かりません。

素人ながら思ったことは、
思慮深く猜疑心も強く、物事を深く考察する人は人間関係の中で、話題以外のことを深く考え過ぎて(自分がこう答えると変に思われないだろうか、、など)
明朗活発な人に比べると
余分なところで色々と頭を使い過ぎるために

大勢の前に出るとボンヤリして頭が回らなくなったりもするし、勿論話術も無く口下手

になってしまうのではないでしょうか。
なので、頭の回転の問題では無いかもしれないと思いました。
しかし明朗活発で知的な人も、勿論います。
ただ、確かに、あまりにも熟考が過ぎるために
思慮深く猜疑心も強く、となってしまう人も中には居ますね。
何となくは、おっしゃっている意味がわかる気がします。

これは、知的かどうか、と言うよりもやはり、
その人の性格、経験値が関係するのではないでしょうかと。

「回転が速過ぎて人には止まったように見える」と言う事もあるかも知れません。

例えば、素人将棋では数分でも考え込めば「遅い」と言われるでしょう。でも、プロの対局では数時間の長考もあり得ます。

脳が思考してる時は、人の心と自然の情緒との交流を、脳が遮断するので、心がストレスになります。脳が休むと、人の心と自然の情緒が交流するので、心が癒されます。情緒は、人を癒し、人を育て、社会を調和に導きます。人は、脳が万能だと思っていますが、人を育てるのは情緒です。脳の科学は、かつて自然を破壊しました。脳の論理思考は、情緒を排除します。だから脳は不調和な存在です。
だから天才は、脳の思考が自我が休んで、脳が無我になっているそうです。

随筆「正義から倫理へ」

悪と言う名の正義と、正義と言う名の悪。
果たしてどちらが正義か?
 勿論、曲がった事が大嫌いで正論をやたらとくどくど吐き捨てて却って周囲から煙たがられるのは、後者ではないか。
 主観によって断罪することは暴力である。独善的とも言う。
 それぞれの価値観を認め、受け入れた上で、その中でその価値観に沿わない行動に対して正論を言うことで、それが忠告、助言になる。
 私はまだ主観的な見方で善悪を判断する事しか出来ていなかった。正論は正論でも、独善的な正論である。「私にとって正しい事」は何か、では無く、「その人にとって正しい事」は何なのか。
 アダムとイブは知恵の実、りんごを食べてエデンの園を追放された。知恵の実とは何だろうか。そう。善悪の判断だ。それは神様のすることだったのでは無いだろうか。
 精神疾患の一つの原因として、白か黒の判断しか出来ない為に生じる苦悩が有る。治療に用いる考え方は、「白」「黒」「白でも有り、黒でも有る」そして、「白でも無く、黒でも無い」の四通りの考え方を受け容れる様にすることで苦しむことが無くなる、と言うものが有る。東洋的な考え方で、特に禅の考え方に近いものだ。それから、昔から議論は相手を打ち負かすものでは無く、自分の考え方を納得してもらうことだと言う。その為には相手の言い分に対しても三分の理は認める必要が有るものだ。正義は時代や文化によって変わる。一人の人間の中にある正義や正論も一生のうちで少なからず形を変えるもので、ましてや他人との間では非常に曖昧なものであると思う。もしも万人に通じる正義が存在したとしても、行き過ぎた正義は時に犯罪を生む。ここでだが、私の通っている大学は、キリスト教を担った、学院大学なのだが、キリスト教関係の授業が必須だったそこで購入していた教科書数冊を全て、勿体無いので単位をとった後も一通り全部読んだ。そこで「正義の名による暴力」と言う言葉が出て来た。目に留まり、もしやこれはと思った。正しいと言われる人間(聖職者)が集団で悪い誤った人間を片端から虐待を行っていたと言う話だった。
 正論は正論でも、やはり理(ことわり)は尽きないものなのか。
私がする事はキリスト教用語で「正義の名による暴力」と言えるところだったのだろうか。 ま、前者も後者も両方を照らし合わせて色々と意見出来る事が正義ではないだろうか。
 世の中には、「倫理」と言う学問がある。・・・学問と呼んでよいのかどうか、個人的には疑問だが。意味は、まあ御存知であるとは思うが、取り敢えず辞書から定義を貼り付けると、
【倫理】
人として守り行うべき道。
善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。
非常にあいまいな定義である。が、これは正鵠をいていると思う。つまり、倫理の定義にある「普遍的な基準」というのがそれだ。正邪の方向性は、時代背景・人の立場により変わる。だから「普遍的な正義(もしくは悪)」を定める所に学問の意義を置こうとする。逆説的ですが、正義が一般化出来ない事を指しているのが御分かりかと思う。かつて、キリスト教以外を異教徒として、あるいは魔女として粛滅していたことは歴史上ご存知ではないだろうか。当時、それは正義だった。勿論、当時でさえもそれが恐怖政治の一形態と知っていた民もいただろう。結論としては、「その人にとって正しい事」は、その人にしか判らないのが解となるだろう。ヤ*ザは暴力が正義だし、赤ん坊は泣いて御飯とかオムツとか人に取り替えてもらう迷惑をかけてもらう事が正義である。
 その行為の正邪を判定するのは常に他人なので、「その人にしか判らない」が解となるだろう。簡潔に言えば、正義も倫理も道徳も、その組織が、その個人が、その団体が、その国が、その社会がどうなることを求めているのか、その目的にどれだけ適っているのか、どれだけ有益なのか、どれだけ貢献しているのかが基準になって評価が分かれるものと言える。プラスならばそれは正義になり、倫理になり、道徳になる。つまり、エゴの正しさがあり、勝てば官軍負ければ賊軍を裁く正しさがあり、科学的に一タス一は二の正確の正しさがあり、無駄にしない生かす正しさがあり、森羅万象すべてを慈悲の心で評価する神仏の正しさも考えられるということも出て来る。評価する側や立場で全く違って来る。目的と手段のどちらに評価のルールをあてはめるか、その効果をどこに優先して評価価値とするかによっては、目的のための手段はその次の優先順位となる。自分の、自分達の、利益のためには、ルールはいらないという発想の正義も出て来る。この世界の全ての宗教、思想史を照らし合わせて考えて、真の真実を極める事が出来れば万物の総ての事が解けるのか。だが、現在の人間の気力と寿命では、どうもそれが出来ないのではないか。いや、でも英米思想では正義と善を分けるのは普通のことで、むしろ善と正義を別けていないと言うことは常識の範疇外である。つまり正義は客観的、普遍的な原理として共同体の構成員が実践しなければならないが、善は各個人の内面に究極的に存在するものだ。日本において正義が論じられるようになるには欧米人のように善と正義が違うということを自力で発見できるか否かということにかかっていると思う。因みに私は発見できるとは思ってはいない。現代英米思想のロールズコミュニタリアンリバタリアンや科学哲学などを照らし合わせればある程度回答は出る筈だが…。ここで気力はともかくとして六、七年あれば大体押さえられる。
ここで。
 現実を見ればごちゃごちゃ考えるまでもない。
 人間は生まれながらにして平等ではない。だから、生まれた後になるべく不平等を減らすような社会的仕組みが(不完全ながらも)ある。
 嘗ての、インドのカースト制度を前提において考えれば、「人が生まれながらにして平等」である事は、誤りではないのか。それは、インド古来の世襲的な階級制度である。バラモン〔=僧〕・クシャトリヤ〔=王族・武士〕・バイシャ〔=平民〕・シュドラ〔=奴隷〕の四つ。上層は下層を蔑視し、異なる階級の間の結婚を認めない。〔一九五〇年、憲法で禁止された〕
 輪廻転生に関する思想から、前世で散々悪行を犯していると決め付けられ、最下層の人はそこから抜けられず、最上層の人は下に成り下がる事もなかった。下層の人は清掃などの単調な作業ばかりやらされ、そこで上層の人が箒(ほうき)を持つ事さえも許されなかったらしい。
 ここでもしも、その輪廻転生があると考えれば、人が平等なのではなく、宇宙の全てこと、その"万物"全てが悠久な時の流れの中で平等になると言う事ではないだろうか。
 だが、例え本当でも、誰も前世を覚えていないのだから、人は見た夢を沢山忘れているので、それは見れていないのと同じであると言う概念と同等に、輪廻転生があろうとなかろうと、その有無の答えは無と言うのが答えになる。

 いつか世界が果てたその時、本当に最後に残る概念は次のうち、一体どれなのか?

一 全てが正しかった。
二 全てどれも正しくはなかった。
三 全てが虚無であった。

 結構、大抵の方が中立になれそうな  三位かと考えるのではないだろうか。

 ここで二を選んでしまえば、「二こそが本当の三になるのではないか??!!」と言うパラドックスに陥りそうではないのか。
 二こそが一番、虚しくて、全てが台無しになってしまいそう、二こそが虚無だ、二こそが、所詮は真の三ではないか、と言う話になりそう、と言う事で、三にしておくとしようか。
 出来ればその次は一にしたいところだが、私は二はとんでもなくなりそうで話にならないように思える。
 では皆様の考えで御願いしたい。
 倫理と言う学問から、良いも悪いも無いと受け止める事が出来る。
 答えの無さが、本当の答えだろう。

 神によって云々と言う事についてならば、最早議論する気は無い。

                                       了

被害妄想に苦しむ&被害妄想を楽しむ

被害妄想に苦しむ内はまだ良いが、被害妄想をまるで趣味みたいに楽しむようになったなら、それは危険である。

それ即ち、被害妄想と言う事は、負のものなので、憎しみや敵意が出てしまうので、それを楽しめたならば、悪魔に魂を売った事になるので、いけないと思う。

苦しんでいる内は、悪魔にまだ魂を売る前なので、その苦しみこそ、神様の加護での、渇の苦しみだと、喜んでおかなければいけないので、ある意味、信仰心が、身を守る事になると言う事だ。